NO | タイトルと著者 | 内容と発行年 | 備考 | おすすめ |
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1 | 「仏印 絵と文」 安東収一 |
イラストとエッセイによるハノイ紹介 1941年 | ||
2 | 「仏印紀行 南の処女地」 長谷川春子 |
女性ひとり旅の訪問記 果物の紹介などあり 1942年 興亜出版社 |
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3 | 「佛印を描く」 久留島秀三郎 |
地理関係のデータや写真やイラストあり 地理、歴史、旅行記など、全般的にベトナムが紹介されている。 1943年 朝日新聞社 |
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4 | 「佛印の旅に思ふ」 高橋廣江 |
小牧近江(こまきおうみ 当時日本文化会館事務局長)宅に下宿したエッセイ 写真あり 1942年 大和書店 |
近代デジタルライブラリー写真 | ★おすすめ |
5 | 「佛印紀行」 リュック・ディルタン |
フランス人のエッセイ 川島順平訳 1943年 樽書房 |
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6 | 「印度・印度支那」 久留島秀三郎 |
インドから、インドシナを縦断した記録 1939年 相模書房 |
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7 | 「仏領インドシナ論」 横山正修 |
副題 印度支那が仏領に記したる沿革南の処女地 興亜日本社 |
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8 | 「貿易風の佛印」 シャン・ドウレル |
訳者は陸軍の通訳、フランス人の書いた中でこの本が最もよいとして訳している。巻末に本人の陸軍駐屯のエッセイ「仏印雑記」あり 姫田嘉男訳 1942年 育成社弘道閣 |
"Asie des Moussons" Jean D’Aureles | ★おすすめ |
9 | 「佛印と私」 酒井彌 |
1942年 大阪毎日新聞社/東京日日新聞社 |
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10 | 「佛印縦走記」 中野寛 |
サイゴン、フエ、ハノイ訪問記 1941年 大日本雄弁会講談社 |
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11 | 「仏印事情」 田澤丈夫 |
行政、衛生状況、産業、風俗など、データがよくまとまっている。 1940年 羽田書店 |
国会図書館 仏印事情 | |
12 | 「牛山ホテル」 岸田国士 |
ベトナムのホテルが舞台の戯曲。 1929年 |
青空文庫 牛山ホテル | |
13 | 「浮雲」 林芙美子 |
著者は陸軍報道班員として、1942~3年にアジアに滞在。ただし仏印は訪問しなかった模様。 1953年 新潮社 |
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14 | 「印度支那に於ける邦人発展の研究」 杉本 直治郎 |
日本河と呼ばれた川と日本人在留の考察。地図多数。 1942年 富山房 |
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15 | 「印度支那の民族と文化」 松本信廣 |
ベトナムの民族紹介、言語族の考察、民話紹介など 著者は民俗学者、ソルボンヌ大で学ぶ、慶応大学教授) 1942年 岩波書店 |
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16 | 「佛印文化史」 水谷乙吉 |
文化のほか保健衛生、福祉、医療についての資料が詳しい1943年 丸善出版 | ||
17 | 「佛印概要」 秋保一郎 |
仏印形成過程の政策、日本との関係などをまとめる。アルファベット-漢字の地名一覧あり 著者は外務省調査官 1942年 海洋文化社 |
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18 | 「仏印の民族とその生活」 名古屋市経済局東亜課 /大岩誠 |
政治学者大岩誠による、ベトナム文化と独立運動のまとめ 安南の呼び名を好ましくないと「越南」を使用。 著者は当時満鉄東亜経済調査局、戦後は南山大学教授 1943年 名古屋市経済局東亜課 |
仏印の民族とその生活 | |
19 | 「安南民族運動史概説」 大岩誠 |
フォンボイチャウ、クオンデの写真あり 著者は政治学者 1941年 ぐろりあ・そさえて |
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20 | 「インドシナの旅」 岩波書店 |
北の写真はないが、村の風景や小学校など生活の写真が紹介される。 1958年 岩波書店 |
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21 | 「仏印進駐記」 大屋久寿雄 |
進駐記とあるが内容は風物やできごとの記録、巻末に「印度支那風物抄」で生活ぶりを紹介 1941年 興亜書房 |
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22 | 「印度支那の民族と文化」 日仏印親善協会 |
政治と文教の都ハノイ Jean Francois ハノイ、フエ、サイゴンの紹介 写真多数 1942年 国際文化振興会 |
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23 | 「仏印回想録」 松澤直哉 |
日本郵船を経て秘密の任務で米を日本に送る仕事をしていた著者の回想。回想なのでかなり自由闊達に当時のことが書かれている。 1971年 海文堂 |
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24 | 「長編小説印度支那」 ローラン・ドルジュレス |
当時フランスで話題になったベトナム紀行。フランス人らしく洒脱で批評的 1943年 金星堂 |
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25 | 「仏印度支那における日本人社会」 湯山英子 |
当時についての現在の研究 1938年241人 終戦時4029人 商社、旅館、雑貨商など 漆塗り 2008年 |
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26 | 「印度支那-フランスの政策とその発展-」 T.E.エンニス 大岩誠訳 |
フランスの印度支那統治の流れをまとめ Thomas E Ennis, French policy and development in Indochina
著者は軍人を経て、日米の大学で教授 社会事業(病院、労働政策、教育)についても資料あり 1941年 生活社 |
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27 | 「世界地理政治体系3 印度支那」 |
印度支那の自然地理、政治地理の概観 1941年 白揚社 |
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28 | 「木下杢太郎全集 第18巻」 木下杢太郎 |
「安南における国語国字問題」(1940)フエの中学での漢文の授業やハノイ大学の様子 「耶蘇会士アレクサンドル・ド・ロオデ」(1942) クォックグーを作った宣教師の紹介
「南方医学覚帳(1942)」「仏領印度支那」(1944) 年 |
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29 | 「シャム・ラオス・安南三国探検実記」 岩本千綱 |
明治時代のタイ、ラオス、ベトナム探検記 タイ、ラオスを経て、1897年ハノイに着いたが、同地で同行の山本鋠介が病死したため、ハノイの記述はほとんどない。
ほかにラオスで、結婚式の前に、男組と女組が戦うなど面白い風俗も書かれている。 1897年 博文館 |
国会図書館 | |
30 | 「戦争の流れの中に-中支から仏印へ」 前田雄二 |
仏印特派員だった時の日記を元に書いた物 大屋久寿雄と共に香港から出航、ハイフォンでは戯曲「牛山ホテル」のモデル「石山ホテル」に滞在。オートライ(ガソリンで走る電車)でハノイへ。ハノイではホテルスプレンディドに滞在、画家長谷川春子も同宿。その後日本の武力侵攻があり、当初ベトナム独立を支持すると期待されていた日本だが、裏切られ幻滅に。歓楽街ではフランス人と日本人の小競り合いもある。 1982年 善本社 |
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31 | 「南乃旅:黎明前の泰仏印」 加藤通文 |
・農民は結婚すると男が女の家に婿に入り、生活費は1人年50ピアストルかかる。 1943年 非売品 |
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32 | 「月から来た男」 吉屋信子 |
妻を亡くして、西貢(サイゴン)で働く健が病気になり、ベトナム女性チン・オアン(鄭鶯)が親身に看病してくれる。ホテルでマカロニグラタンなどしか食べられなかったところを、イモを油で炒めて肉と醤油で煮たおかずなどを作ってくれる。
健は悩んで結婚を考えるが、その前に死んでしまう。 西貢のカフェ、南進女性(当時アジアで活躍(?)する女性をこう言ったらしい)、裸足にサンダルのフランス娘、パーマをかけたベトナム娘などが描かれる。 1943年 |
ゆまに書房 復刻版2002 | |
33 | 「南洋学院 :戦時下ベトナムに作られた外地校 」 亀山哲三 |
南洋学院は、戦前ホーチミン市にあった全寮制の専門学校で、8:10~18:00まで修身、生物、法学、ベトナム語、フランス語、熱帯衛生などの授業が行われたそうです。 著者はこのようにも言っています。「この歴史的な奔流の場の中で、私、そして、私たちが思い知ったのは、『純真』とは『単純』も意味していたことと、『現地の人を指導する』が『都合のよい思い上がり』だったこと、そして深い交流を通じたベトナムの人々の自由と独立の願いの結集の強さだった」 1996年 芙蓉書房出版 |
著者は南洋学院第1期生 | |
34 | 「仏印風物誌 」 畠中敏郎 |
物の値段や本や巡りの様子がくわしい。 1943年 生活社 |
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35 | 「南洋叢書 第2巻 仏領印度支那篇」 |
・100ピアストル 78.6円 ・結納は10~20ピアストルで、男からは布、髪飾り、袴、腕輪、首飾り、女からはたばこ、煙草入れ ・結婚にはキンマ、茶、酒 ・離婚は自由 子女は配分、再婚もOK 1937年 東亜経済調査局 |
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36 | 「仏領印度支那にさ迷う」 大橋 与成 |
当時フランス語を学び、ベトナムに留学、滞在した体験を元にした小説。主人公は日本軍で働いたり、ベトナム独立同盟で働いたり、下宿の娘に恋したり、娼婦を買ったり、人妻に恋したりと、ほんとに”さ迷って”ますね。 2000年 鳥影社 |
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37 | 「仏印の住民と習俗」 山川 壽一(としかず) |
大岩誠の援助を得て出版された本で、著者は長年印度支那研究にたずわっていたそうです。たしかに、くわしい資料で、写真も多く、家族制度、村落と守護神、独立運動などにも多くのページを割いて言及しています。なぜ農民が貧乏なのか、無気力に見えるのかなど、経済的、歴史的な説明もあります。また、参考文献が明記されているのがよいです(明記がない物が多いので) 1942年 偕成社 |
★おすすめ | |
38 | 「佛領印度支那研究」 逸見重雄 |
インドシナの主に経済・産業面を紹介しています。 村の市場や亭(ディン 神社、集会所のような所)、航空写真、地図など図表資料が多いです。 1941年 日本評論社 |
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39 | 「アジアの目覺め」 原題East of Home(1950) サンタ・ラマ・ラウ Santha Rama Rau |
戦後インドの外交官だった父とともに、日本、中国、ベトナム、カンボジア、タイなどに滞在した著者の記録。タイトルは当時の民族独立運動の高まりから。様々な人にあって、現状を知り、意見を聞いています。ホーチミン市では、ベトミンの夫をもつカトリック信徒の婦人にフランス軍の残虐な写真を見せられ、話を聞きます。日本人ではない立場で聞いているところが新鮮です。残念なのは編集で割愛された部分が多いこと。 1953年 岩波書店 |
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40 | 「ベトナムの民族・文化・教育」 古川 原 内容紹介 |
将校としてベトナムに駐留した著者の経験が書かれている。著者は教育者なので、行く先々で日本語を教えたり、現地の有力者や塾を訪問したり、終戦時ベトミンへの参加を誘われるなどの記録が大変おもしろい。 くわしくはこちら 1969年 明治図書新書(43 ヴィェトナム民族・文化・教育) |
★おすすめ | |
41 | 「魔都」 久生十蘭 |
ベトナムのことを書いているわけではない。が、東京を舞台に、モダニズム趣味の探偵小説で、主人公の1人が安南の宗龍王(vua tông rồngかな?)で、その王様の命と貴重なダイヤが狙われるという内容。
当時の読者にとって安南は探偵小説のネタになりうる国だったようです。作者はフランス留学経験もあり。 1937-38年 雑紙「新青年」 |
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42 | 「ヴェトナムの血」 小松清 |
小松清はフランス文学者で、1941年と1943年~1946年にベトナムに滞在し、小牧近江と共にフランスとベトナムの話し合いの仲介を行いました。
この小説は当時を回想して書いた物ですが、ページを開いて32頁まで、延々と、主人公の和田(小松本人)は侍で、勇敢で、ナショナリストのベトナム人を南に逃がしてと、自画自賛の言葉が続きます。多少願望も入っているそうですが。
この頃の在越日本人はよく回想を書いていますが、回想と現実と、どれだけ同じで、どれだけ違うんでしょうね? 1954年 河出書房 |
*163頁にホーチミンを訪ねてハノイ36通りに行く描写があるので紹介します。 |
*青年団の輪読会 |
*ハノイ |
ハノイは1873年には、どんな状態であったか。 |
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18.「仏印の民族とその生活」 1943年 名古屋市経済局東亜課/大岩誠 食物-越南人は、米飯を主食と士、野菜、魚、乾魚、塩魚、牛、豚、鶏、家鴨などを副食物とする。越南料理は肉よりも野菜が多くて支那料理よりも淡泊だが、特に醤油として魚醬(ニョクマム)を使う。魚を塩漬にして発酵させて拵(こしら)えるのだが、臭気鼻を衝いて、慣れぬものは閉口する。越南人にとっては最上の食欲増進剤なのである。下級階級は一日一回、玉蜀黍(とうもろこし)の粥で済ましているものが多く、栄養は極めて悪い。 |
人口など統計資料多数 |
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行政、衛生状況、産業、風俗など、データがよくまとまっている。 |
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9.「佛印と私」 酒井彌
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●24 紙の街 (ハノイ旧市街/ハノイ36通り) p187 |
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ハノイについてはほんの少しだけ記述がある。 |
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ハノイの日本文化協会の事務長として活動していた小牧近江(こまきおうみ)宅に下宿していた記録なので、独立運動をするベトナムの小説家が訪問したり、短期滞在の人にはない臨場感がある記録です。 |
●随想 安南のテート(旧正月) |
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------------解説--------------●1940年代のハノイ ------------内容紹介--------------9 ハノイ市(整然とした街並み) |