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1940年代 ベトナム紀行と研究

1940年代はフランス人や日本人による、ベトナム紀行、ベトナム研究が数多く書かれています。
日本人のものは当時の日本軍の侵略戦争に伴う、軍の意向にそった紀行や研究ですが、
当時のベトナムの姿を伝える資料でもあるので、ここに紹介します。

NO タイトルと著者 内容と発行年 備考 おすすめ
1 「仏印 絵と文」
安東収一
イラストとエッセイによるハノイ紹介 1941年    
2 「仏印紀行 南の処女地」
長谷川春子
女性ひとり旅の訪問記
果物の紹介などあり 1942年 興亜出版社
   
3 「佛印を描く」
久留島秀三郎
地理関係のデータや写真やイラストあり
地理、歴史、旅行記など、全般的にベトナムが紹介されている。
1943年 朝日新聞社
   
4 「佛印の旅に思ふ」
高橋廣江
小牧近江(こまきおうみ 当時日本文化会館事務局長)宅に下宿したエッセイ 写真あり
1942年 大和書店 
近代デジタルライブラリー写真 ★おすすめ
5 「佛印紀行」
リュック・ディルタン
フランス人のエッセイ
川島順平訳 1943年 樽書房
   
6 「印度・印度支那」
久留島秀三郎
インドから、インドシナを縦断した記録
1939年 相模書房
   
7 「仏領インドシナ論」
横山正修
副題 印度支那が仏領に記したる沿革南の処女地
興亜日本社
    
8 「貿易風の佛印」
シャン・ドウレル
訳者は陸軍の通訳、フランス人の書いた中でこの本が最もよいとして訳している。巻末に本人の陸軍駐屯のエッセイ「仏印雑記」あり
姫田嘉男訳 1942年 育成社弘道閣
"Asie des Moussons" Jean D’Aureles ★おすすめ
9 「佛印と私」
酒井彌
1942年
大阪毎日新聞社/東京日日新聞社
   
10 「佛印縦走記」
中野寛
サイゴン、フエ、ハノイ訪問記
1941年 大日本雄弁会講談社
   
11 「仏印事情」
田澤丈夫
行政、衛生状況、産業、風俗など、データがよくまとまっている。
1940年 羽田書店
国会図書館 仏印事情   
12 「牛山ホテル」
岸田国士
ベトナムのホテルが舞台の戯曲。
1929年
青空文庫 牛山ホテル    
13 「浮雲」
林芙美子
著者は陸軍報道班員として、1942~3年にアジアに滞在。ただし仏印は訪問しなかった模様。
1953年 新潮社
    
14 「印度支那に於ける邦人発展の研究」
杉本 直治郎
日本河と呼ばれた川と日本人在留の考察。地図多数。
1942年 富山房
    
15 「印度支那の民族と文化」
松本信廣
ベトナムの民族紹介、言語族の考察、民話紹介など
著者は民俗学者、ソルボンヌ大で学ぶ、慶応大学教授)
1942年 岩波書店
    
16 「佛印文化史」
水谷乙吉
文化のほか保健衛生、福祉、医療についての資料が詳しい1943年 丸善出版     
17 「佛印概要」
秋保一郎
仏印形成過程の政策、日本との関係などをまとめる。アルファベット-漢字の地名一覧あり
著者は外務省調査官
1942年 海洋文化社
    
18 「仏印の民族とその生活」
名古屋市経済局東亜課
/大岩誠
政治学者大岩誠による、ベトナム文化と独立運動のまとめ
安南の呼び名を好ましくないと「越南」を使用。
著者は当時満鉄東亜経済調査局、戦後は南山大学教授
1943年 名古屋市経済局東亜課
仏印の民族とその生活   
19 「安南民族運動史概説」
大岩誠
フォンボイチャウ、クオンデの写真あり
著者は政治学者
1941年 ぐろりあ・そさえて
  
20 「インドシナの旅」
岩波書店
北の写真はないが、村の風景や小学校など生活の写真が紹介される。
1958年 岩波書店
  
21 「仏印進駐記」
大屋久寿雄
進駐記とあるが内容は風物やできごとの記録、巻末に「印度支那風物抄」で生活ぶりを紹介
1941年 興亜書房
  
22 「印度支那の民族と文化」
日仏印親善協会
政治と文教の都ハノイ Jean Francois
ハノイ、フエ、サイゴンの紹介 写真多数
1942年 国際文化振興会
  
23 「仏印回想録」
松澤直哉
日本郵船を経て秘密の任務で米を日本に送る仕事をしていた著者の回想。回想なのでかなり自由闊達に当時のことが書かれている。
1971年 海文堂
  
24 「長編小説印度支那」
ローラン・ドルジュレス
当時フランスで話題になったベトナム紀行。フランス人らしく洒脱で批評的
1943年 金星堂
  
25 「仏印度支那における日本人社会」
湯山英子
当時についての現在の研究
1938年241人 終戦時4029人 商社、旅館、雑貨商など 漆塗り
2008年 
    
26 「印度支那-フランスの政策とその発展-」
T.E.エンニス
大岩誠訳
フランスの印度支那統治の流れをまとめ Thomas E Ennis, French policy and development in Indochina 著者は軍人を経て、日米の大学で教授 社会事業(病院、労働政策、教育)についても資料あり
1941年 生活社
  
27 「世界地理政治体系3 印度支那」
印度支那の自然地理、政治地理の概観
1941年 白揚社
    
28 「木下杢太郎全集 第18巻」
木下杢太郎
「安南における国語国字問題」(1940)フエの中学での漢文の授業やハノイ大学の様子 「耶蘇会士アレクサンドル・ド・ロオデ」(1942) クォックグーを作った宣教師の紹介 「南方医学覚帳(1942)」「仏領印度支那」(1944)
年 
    
29 「シャム・ラオス・安南三国探検実記」
岩本千綱
明治時代のタイ、ラオス、ベトナム探検記 タイ、ラオスを経て、1897年ハノイに着いたが、同地で同行の山本鋠介が病死したため、ハノイの記述はほとんどない。 ほかにラオスで、結婚式の前に、男組と女組が戦うなど面白い風俗も書かれている。
1897年 博文館
国会図書館   
30 「戦争の流れの中に-中支から仏印へ」
前田雄二
仏印特派員だった時の日記を元に書いた物 大屋久寿雄と共に香港から出航、ハイフォンでは戯曲「牛山ホテル」のモデル「石山ホテル」に滞在。オートライ(ガソリンで走る電車)でハノイへ。ハノイではホテルスプレンディドに滞在、画家長谷川春子も同宿。その後日本の武力侵攻があり、当初ベトナム独立を支持すると期待されていた日本だが、裏切られ幻滅に。歓楽街ではフランス人と日本人の小競り合いもある。
1982年 善本社
    
31 「南乃旅:黎明前の泰仏印」
加藤通文
・農民は結婚すると男が女の家に婿に入り、生活費は1人年50ピアストルかかる。
1943年 非売品
    
32 「月から来た男」
吉屋信子
 妻を亡くして、西貢(サイゴン)で働く健が病気になり、ベトナム女性チン・オアン(鄭鶯)が親身に看病してくれる。ホテルでマカロニグラタンなどしか食べられなかったところを、イモを油で炒めて肉と醤油で煮たおかずなどを作ってくれる。 健は悩んで結婚を考えるが、その前に死んでしまう。
 西貢のカフェ、南進女性(当時アジアで活躍(?)する女性をこう言ったらしい)、裸足にサンダルのフランス娘、パーマをかけたベトナム娘などが描かれる。
1943年 
ゆまに書房 復刻版2002   
33 「南洋学院 :戦時下ベトナムに作られた外地校 」
亀山哲三
 南洋学院は、戦前ホーチミン市にあった全寮制の専門学校で、8:10~18:00まで修身、生物、法学、ベトナム語、フランス語、熱帯衛生などの授業が行われたそうです。
 著者はこのようにも言っています。「この歴史的な奔流の場の中で、私、そして、私たちが思い知ったのは、『純真』とは『単純』も意味していたことと、『現地の人を指導する』が『都合のよい思い上がり』だったこと、そして深い交流を通じたベトナムの人々の自由と独立の願いの結集の強さだった」
1996年 芙蓉書房出版
著者は南洋学院第1期生   
34 「仏印風物誌 」
畠中敏郎
物の値段や本や巡りの様子がくわしい。
1943年 生活社
    
35 「南洋叢書 第2巻 仏領印度支那篇」
・100ピアストル 78.6円
・結納は10~20ピアストルで、男からは布、髪飾り、袴、腕輪、首飾り、女からはたばこ、煙草入れ
・結婚にはキンマ、茶、酒
・離婚は自由 子女は配分、再婚もOK 
1937年 東亜経済調査局
     
36 「仏領印度支那にさ迷う」
大橋 与成
当時フランス語を学び、ベトナムに留学、滞在した体験を元にした小説。主人公は日本軍で働いたり、ベトナム独立同盟で働いたり、下宿の娘に恋したり、娼婦を買ったり、人妻に恋したりと、ほんとに”さ迷って”ますね。
2000年 鳥影社
 
37 「仏印の住民と習俗」
山川 壽一(としかず)
大岩誠の援助を得て出版された本で、著者は長年印度支那研究にたずわっていたそうです。たしかに、くわしい資料で、写真も多く、家族制度、村落と守護神、独立運動などにも多くのページを割いて言及しています。なぜ農民が貧乏なのか、無気力に見えるのかなど、経済的、歴史的な説明もあります。また、参考文献が明記されているのがよいです(明記がない物が多いので)
1942年 偕成社
★おすすめ
38 「佛領印度支那研究」
逸見重雄
インドシナの主に経済・産業面を紹介しています。
村の市場や亭(ディン 神社、集会所のような所)、航空写真、地図など図表資料が多いです。
1941年 日本評論社
 
39 「アジアの目覺め」
原題East of Home(1950)

サンタ・ラマ・ラウ Santha Rama Rau
戦後インドの外交官だった父とともに、日本、中国、ベトナム、カンボジア、タイなどに滞在した著者の記録。タイトルは当時の民族独立運動の高まりから。様々な人にあって、現状を知り、意見を聞いています。ホーチミン市では、ベトミンの夫をもつカトリック信徒の婦人にフランス軍の残虐な写真を見せられ、話を聞きます。日本人ではない立場で聞いているところが新鮮です。残念なのは編集で割愛された部分が多いこと。
1953年 岩波書店
 
40 「ベトナムの民族・文化・教育」
古川 原
内容紹介
将校としてベトナムに駐留した著者の経験が書かれている。著者は教育者なので、行く先々で日本語を教えたり、現地の有力者や塾を訪問したり、終戦時ベトミンへの参加を誘われるなどの記録が大変おもしろい。 くわしくはこちら
1969年 明治図書新書(43 ヴィェトナム民族・文化・教育)
★おすすめ 
41 「魔都」
久生十蘭
ベトナムのことを書いているわけではない。が、東京を舞台に、モダニズム趣味の探偵小説で、主人公の1人が安南の宗龍王(vua tông rồngかな?)で、その王様の命と貴重なダイヤが狙われるという内容。 当時の読者にとって安南は探偵小説のネタになりうる国だったようです。作者はフランス留学経験もあり。
1937-38年 雑紙「新青年」

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42 「ヴェトナムの血」
小松清
小松清はフランス文学者で、1941年と1943年~1946年にベトナムに滞在し、小牧近江と共にフランスとベトナムの話し合いの仲介を行いました。 この小説は当時を回想して書いた物ですが、ページを開いて32頁まで、延々と、主人公の和田(小松本人)は侍で、勇敢で、ナショナリストのベトナム人を南に逃がしてと、自画自賛の言葉が続きます。多少願望も入っているそうですが。
この頃の在越日本人はよく回想を書いていますが、回想と現実と、どれだけ同じで、どれだけ違うんでしょうね?
1954年 河出書房
 

42.「ヴェトナムの血」より

*163頁にホーチミンを訪ねてハノイ36通りに行く描写があるので紹介します。
フランス風の嘉隆大通り(ブルバール・ジャロン)がつきると、狭い土着人街が始まる。
越南人の商店や、安づくりの、小さな黄色の生の色で壁をぬった二階建ての住宅が、ぎっしり並んでいるレーロイ街。 並木の熱帯樹も歩行路もなくなり、その代わり、見すぼらしい土着民の群衆が目立って多くなった。往来のはげしい、賑やかな通りを避けるようにして、和田は、裏通りの屋敷街に足をむけた。奥深い内庭をかくした常春藤(キズタ(木蔦/ヘデラ))に蔽われた古びた塀にそって歩いた。土塀の上から檳榔樹(びんろうじゅ)が、行人の疎らな小路をのぞくように立っていた。杜鵑(ほととぎす)の鳴き声を思わせる鋭い鳥の声が、霧雨(クラッシャン)に濡れた街の空気をかすかに揺り動かしていた。

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40.「ベトナムの民族・文化・教育」より

*青年団の輪読会
 男子青年は十五歳になると青年団に入る。青年団は災害のときなどは起ちあがって集団行動をするが、そんなことはめったにない。おもな仕事はこの読書会である。読書会は、村に書物を持っている家というのが三、四軒だけだから、その家を巡繰りに借りる。灯油などもその家で寄附してくれる。席を借り、ランプを借り、書物を借りる。一軒の家の蔵書数はせいぜい五ー十珊だから、村中で三、四十冊もあれば極めて多い方だ。まずA家で一冊を借り、それを輪読する。よみ終わったらB家に行き、また一冊を借りて輪読し、C家に移る。C家の一冊を輪読し終わったらA家に戻り、そこの第二冊をよむ。こうして村中の蔵書を一通りよみ終わるのに五、六年かかり、読み終わったものは青年団を卒業して、一丁前になる。
 私はこの習俗を涙のでるほど感動しながら聞いた。そうしてこういう習慣はいつごろからはじまったのか、と聞くと、リーダー君もそれは知らず「多分昔からでしょう」といった。・・・学校へ行ったことのない新入団員はどうするのか、と聞くと、「おそいものでも一月くらい輪読をだまって聞いていれば、ひとりで読めるようになります。」という。

*男が家事、長髪 女は立ち小便
 (男の仕事が家事だと聞いて)それはちょうど三ー四十年前の日本の半農半漁の風景に似ていた。男たちは漁のある日は夜明け前からでて行き、天候が悪ければ家にいるので、主婦たちが農業の主力で、男が炊事を担当しているらしいのを私も見たことがあった。 そこで私は、ヴィェトナムではことぼを除けば人情風俗まったく日本人に似ている。ちがうところは三点だけ。即ち、ヴィェトナムでは(1)女が外で働き、男が内で働く、(2)男が長髪で髪を結び、女が断髪である、(3)野外で女が立小便し、男が物陰でしゃがんでする、のが日本との相違点だと結論した。 ((2)は婦人がチフスの原因のシラミがつかないよう、おかっぱや刈り上げにしていたため。また男性はお歯黒もしていた。(3)は婦人のズボンが幅広で、男性のそれはぴったりしていたから)

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34.「仏印風物誌」より

*ハノイ
・ホテルスプレンディッドは極東学院の向かい。
・Taupin(トパン)、Ideo(イデオ 極東出版所)という書店があった。
・ホアンキエム湖の電車通りの角から、順に東から百貨店グランマガジンレユニ、ホテルドラペ(平和ホテル)、ホテルデコックドール(金鳥ホテル)があった。仏印観光局 Credit Foncier この当たりに並木なし ホテル1階には通りに面したサロンがあり飲み物が飲める。
書店は1階部分のみで奧に長い。品切れが多く、あった本もすぐなくなる。文具売り場には絵はがき。
トパン書店は大きく、白いアオザイの店員がいる。文具売り場は黒い洋装の店員。
安南人街は立派に舗装され、煉瓦しっくいのかべ。
バルテルミ候が「印度支那にて」で36通りの様子を書いている。
サンダルは3.5ピアストル、半袖シャツは11ピアストル、くつ10ピアストル。
ホアンキエム湖のカフェラックでもレモネードあり。
カムティエンでは56番の家が有名、台湾のバーのようで、踊るサロンもある

*サイゴン
露店カフェが多くレモネードなど飲める。デパートは奧が長いが2階しかない。
デパートの隣のクルニアカフェはアイスクリーム(グラニータ)50スー、カステラケーキ15スー。
パスツール研究所前のフォー売りは1杯2スー。
サイゴンでは英語の本が多い。チュノムの本屋もある。
ビフテキは25スー、床屋は1ピアストル
チョロンは夜危ない。
トイレがきたない。
演芸の入場料は30スーから

*その他
新亞大酒家は北京ダックが有名、ビールはHomel。
ボシャン通りとジェールフィール街に「ダンティエン」「ティニエン」のレコード屋
汽車の3等は木の長いす。

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22.「印度支那の民族と文化」より

 ハノイは1873年には、どんな状態であったか。
 安南人の著述家ティエン・ダムは、われわれにそれを想起させてくれるであろう。以下、かれの証言を訳出しよう
 「ハノイは二つの区別された部分から構成されていた。すなわち官人たちの屋敷、高い砦を有し、深く水をたたえた掘割に囲まれた城砦地域と、有名な詩句(Hanoi ba muoi sau phô phuong)」の所謂『36の街路と商売をもった町』、浮動し勝ちな町、あるいはむしろ茅屋の大村落、月の1日と15日に、その地方の全商売が行われる、大都市とも言うべき、商業地域とである。この商業地域は城砦地方の東方、紅河と、小湖の北端との間に横たわっている。それは大きな柵によって囲まれているが、しかし町を夜襲から護る効果は殆どなかった。街路は狭く、道に舗装は無く、雨が降ると全くの水溜りになってしまった。溝も、排水用の掘割もなく、従って、そこには不断に不衛生が支配し、流行病は、そこに、格別好都合な地域を見出した。街並みの整頓は露ほどもなかった。家屋は、居住者の思いの儘に、互いに積み重ねられるように、建てらていたので、乾燥気に入ると火事が絶えず起こった。
 昼間は、がやがやと人の多く集まる市場のように、極めて騒がしい広場であった。
 これに反して、夜のとばりが降りると、一大沈黙が町の上に広がった。戸は閉じられ、番人は位置につき、各々の家屋には南京錠がかけられ、財産はかくされた。何人も、盗人を恐れて、敢えて危険を冒して、街路に出るものはなかった。各人は黒籏軍あるいは黄籏軍の予測し難い襲撃を思って、内心戦慄した…」

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21.「仏印進駐」より

1)漁り(すなどり)
 どこでも水たまりや川、田んぼで老若男女問わず魚を捕る。しかし釣れているのを見たことがない。
2)安南人の價(あたい)
 安南人の給料は実に安い。フランス人なら250ピアストルも取れるのに、安南人は大学出でも80ピアストルである。ハーフでフランス国籍を取得できると給料に大きな差ができる。事故で死亡した親子に、慰謝料をたったの10ピアストルしか渡せず、残りは警官がとってしまったという経験をした。
だびたびの禁止令で人前での殴打はなくなったが、フランス人と、安南人との懸隔は宿命的とされている。安南人の性格を早のみ込み、杓子定規と言うが、それは元々の性格ではなく、聞き返すと怒鳴られるようなフランス人との生活から、培われたものではないだろうか。
3)衣・食・住
 男性は黒布のターバンをかぶり、黒の長い上衣を引きずり、白いズボンを穿いて、サンダルを履いて、黒い傘を差して歩く。男性もお歯黒をし、キンマを噛む。
 女性は、よく働く。道路工事、港区苦力など、たくさんの女性労働者がいる。渋で煮染めた様な色の上衣を着て、黒のズボンを穿き、多くは裸足である。働かない女性は、白い絹のアオザイを着て優雅で美しい。豊かな髪の毛は頭の上に巻く。
 男性は市街地では洋装が多いが、女性はぜんぜん洋装をしない。従来の安南服で不便を感じないのだろう。
 安南料理は、一口に言うと、原始的な支那料理とでも言うのか、あじだの、料理の方法はやや支那に似て、但しずっと品が落ちるが、一つ一つを小皿にとって、各人の前に並べて供するやり方は、むしろ日本式に近い。味も多くは、支那料理ほどにこってりはしていないようだ。
 チュム・チュムと言う、米を原料にして造る、支那酒と日本酒の合いの子みたいな酒を飲む。安南人に言わせると、昔、各家庭で思い思いに醸造していた頃は、この酒も、ずっとうまかったが、酒が専売になり、フランス人の資本で、機械醸造になってからは、チュム・チュムは、もはやチュム・チュムではなくなって、チュム・チュムと呼ばれる別の酒となりはてた、のだそうであるが、私は昔のチュム・チュムを知らぬので、何とも言えぬけれども、今日のチュム・チュムは、日本酒のようなこくがなくて、あまり良い酒とは言われない。
 私のところにいた料理人は、安南料理がなかなか巧みで、私は彼の安南料理を、いろんな訪客に自慢して、食べて貰ったが、客人たちは単なるお世辞でなしに、ほんとにうまいとほめてくれた。
 私が好んで食べたのは、そして今でも思い出すと、日中生唾の泌みるを禁じ得ないのは、彼が自慢の鯰料理である。グラン・ラックあたりで漁れる中くらいの鯰を蒸して、それに何と何とを調合したのかしらないが、味も香も独特な味噌を添えて供するが、鯰の黄色い脂肪とこの味噌の味が実によくマッチしていた。
 果物は、南洋産のものが一応何でもある。しかしシンガポールあたりで食べられるものに比べば、バナナにしろ、マンゴー、マングステン、パパイヤ、何に限らず質は遙かに落ちる。
 この国の果物で、ちょっと変わっているのは、「ポム・カネ」と「ナ・コエ」とであろう。
パゴド(寺院)の物語り
 サイゴンの街では、別段詩を求めようとしなかった私の心は、どういうものか、ハノイの街に入ると、しきりに詩を求める。
 それは恰(あたか)も、東京と京都・奈良、ベルリンとパリ、上海と北京、そう言った違いなのであろう。
 古い街には、どこかに何とも言えない幽しい雰囲気がただようものである。それがひとりでに、旅行く人の心にふれるのであろう。
 湖畔にそそりたつ椰子の木や、リラの姿を、小波一つない水面に映し出し、湖心に浮かぶ二つの小島に、それぞれパゴドを戴いたプチ・ラック。それは丁度ハノイの街の中央にあたるところに、天が与えたオアシスである。
 湖の南側の、大木の生い繁った下には、絶えず何人かの安南娘が美しい花の露店を開いていて、馥郁たる香りが行く人の心をやわらげる。
 旧正月のお祝いには、湖心にある二つの島のパゴドを中心に、湖全部がイリミネーションで飾られて、鳥や龍や亀や、安南神話の語り伝えに出て来る様々の動物の形をした小舟が、市民たちを乗せて湖面に充ちるのである。
 西・北の角に、湖上に露台を張り出したカフェーでは、土曜と日曜の夕方から、露店のダンスが始まる習慣であった。東・南の角にあるカフェーでは、毎夜、暑さ凌ぎの人々で、一二時過ぎまで賑わう。
 サイゴンのカチナ通りのような繁華街がなく、ただ、ただっぴろいばかりで、一向どこが中心だか判らないような、静寂の街ハノイでは、小湖が、いつとはなしに、中心になってしまっているのだった。
 トンキン州理事庁、中央郵便局、ホテル・メトロポール、それから主なフランス人商社など、何れもプチ・ラックを中心に、その周囲のあちこちに立ち並んでいる。
 小湖がこうして、ハノイ市民の急進的存在なら、街の西・北郊外に渺々(びょうびょう)と拡がるグラン・ラックは、疲れた市民たちの逃避場であり、遠心的な存在である。
 太湖をタイ・ホウとトリユツク・バックの二つに区切る堤防は、そのまま狭い散歩道になっていて日中でも涼しい木のトンネルが、起点の大仏寺のところから向う岸まで続いている。
 向う岸のつけ根のところには、ヨット・クラブだのスカール・クラブだのがあって、白帆が、スイスイと水を切って、出たり入ったりして夕暮れどきなどは如何にもピトレスク(絵画的)だ。
(カム・チェンの夜)
 ハノイ南郊に近いティエン・クォンの湖を左に、深々と座りのよい、この街独特のプス・プス(人力車)を駆って、静かな住宅街をぬけ、堂々とした駅の白い建物、雲南鉄道会社の赤煉瓦建、かつて汪精衛の偶居であり、曾仲鳴が暗殺された思い出の黄壁の家などを右に見て、鉄道線路を越えて行くと、歌と、鼓と、舞の街、美妓さざめくカム・チェンに出る。
 何の慰安もなく、日夜激しい反日佛印の敵意に包まれて、ただ一人、がらんとした家に暮らした三年前の一年間、私にとって、せめてもの楽しみは、カム・チェンを訪れることであった。…
 街に一歩踏み入れると、名状しがたい雑踏である。そぞろ歩きの嫖客(ひょうかく)、門口に出て涼とりかたがた、馴染客をやりすごさじと見張する妓たち、物売り、プス・プス、使い走りのボーイたち、巡捕。
 これ等が混然と溶け合い、軒並に洩れて来る鼓の音や歌声にまじって、ここ独特の明るい騒々しさをかもし出している。
 屋号はなくて、戸口に打ちつけた番地で呼ぶあたり、フランス本国と同じ流儀だが、その他には、何一つフランス流的なところはない。そもそも、フランス語が全然と言ってよい程通じない。
 幼い時、5ピアストルか10ピアストルで、貧しい両親のもとから買いとられて来る妓どもは、一通りの芸を教えられる他には、せっせと肌を磨きあげること以外何一つ教わらないのだから、フランス語など全く判らないのが当然であろう。それにフランス人は殆ど遊びに来ないから、自然に覚える、という機会もまずないわけだ。
 遊び方は、北京の前門(チェン・メン)を想えばいい。大体似たようなものだ。
 広い部屋の一隅に、黒檀や紫檀の、贅沢な木の縁台があり、その他にソファや椅子などもある。阿片吸引器も備え付けてある。
 お客は何でも好きなものを、茶でも、ビールでも、ブドー酒でも、コニャックでも、勝手に飲むがいい。
 妓たちも、自分の好きな客のところに、勝手に寄って行く。嫌になればぷいとどこかへ行ってしまう。
 歌う妓、鼓を叩く妓、舞を舞う妓、いずれも例の立派な縁台の上でやる。
 妓たちは、思い思いに派手で優美な絹の安南服を着て、一夜に二度でも三度でも、気分のむくままに衣裳をとりかえる。もし諸君が来たので、特に衣裳を取り替えた妓がいたら、その妓は諸君に、かすかな思いを寄せていると思ってよいだろう。
 遊興費には定価はない。だからお勘定書というものがない。茶一杯飲んで20ピアストル置く客もあれば、ブランデー一本飲んで5ピアストルしか置かぬ客もあろう。ほんとの「おこころざし」である。それだけに、ここの遊びは難しく、また風情がある。そんな、鷹揚なところなども北京の遊びに似ている。
 馴染みになると一文も持っていなくても、この次という手でゆっくり遊べるし、家の方でも何とも言わない。
 妓たちは朗らかである。日本の芸者と同じように、ポータブルが好きで、ダンスを好む。
…肌を許さないこともないが、それは銭金づくしのものではなしに、そこから先は彼女の自由意志であり、恋の問題である。…
 幽しい、ゆとりのある遊びの制度である。そこには虐げられた女たちがかもしだす、あの重苦しい、いぎたなさ、嘔吐を催したくなるような、生々しい搾取の空気は、全くない。
 妓たちは、広いおりの中に放ち飼いならされた、美しい鳥である。その鳥は、檻があまり広いので、もしかすると彼女ら自身では、自分たちが捕われの身であることを忘れているのかもしれない。


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18.「仏印の民族とその生活」 1943年 名古屋市経済局東亜課/大岩誠

食物-越南人は、米飯を主食と士、野菜、魚、乾魚、塩魚、牛、豚、鶏、家鴨などを副食物とする。越南料理は肉よりも野菜が多くて支那料理よりも淡泊だが、特に醤油として魚醬(ニョクマム)を使う。魚を塩漬にして発酵させて拵(こしら)えるのだが、臭気鼻を衝いて、慣れぬものは閉口する。越南人にとっては最上の食欲増進剤なのである。下級階級は一日一回、玉蜀黍(とうもろこし)の粥で済ましているものが多く、栄養は極めて悪い。

は米酒、煙草はフランスの政策によって、子供たちまでが之を好む。そのほか特に目立つのは南方一帯に用いられる蒟醤(きんま)を噛むことで、檳榔樹の実を石灰で操作して、蒟醤の葉に包んで噛む。赤い汁は飲み込まずに所きらわず吐き出す。真紅の血痰を吐き散らすようで不潔不快なものであるが、炎暑を凌ぐ一の方法である。

(住居について)
 越南人大衆の家屋は一般に簡素な掘立小屋で、竹の柱に藁又はタラニエという椰子科の一種の木の葉で屋根を葺く。入口の正面には祭壇を設けて祖先の霊を祭る。祭壇の前に木の低い縁台を置き、その上で座臥する。家屋の左右両側は主として寝間に使う。上中流の家は、洋館式か支那式の家で、縁台の上で座臥し、床の上に座臥する事はない。

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17.「佛印概要」 1942年 秋保一郎

人口など統計資料多数

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16.「佛印文化史」 1943年 水谷乙吉


漢字はもう何の役にもたたぬ。
進士殿、学人殿は隅に押し込められた。
なぜフランス語を学んで通訳殿にならぬのか。
夕にはシャンペーンを、朝には雌牛の乳が飲める。

「新年の祈願」の一部
お待ち、聞きなさい、みなは名誉を祈願する。
或る人は位階を金で買い、官紀を金で買う。
では、私は傘屋になる。
私はからかいながら傘を売ってやるが、それでも彼等は買うであろう。

(pp96-98 詩家 修春チューシアンの風刺誌)

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15.「印度支那の民族と文化」 1942年 松本信廣


1 安南人
 安南人は頭髪を伸ばして之を頭に巻き、ターバンで締める。安南と交趾支那の女子はターバンを使用しないが、東京地方では毛をクレープに包み頭に巻いている。男子は白木綿の太い股引を穿き、脇をボタンで留めた長い黒絹或いは鳶色木綿の上衣をつけ、女子服もほとんど之と同様であるが、北部農村の女子は下裳(したも)をつける。…彼等は普通徒跣(とせん/かちはだし)で市中に於いてのみ革製又は木製の履物を穿つ。その住宅は平屋で床なき場合多く、竹で編まれ、屋根も草葺で壁は練土又は竹で編まれている。住宅は密集して竹の圍障(いしょう)に囲まれ、かつて之の地を荒した匪賊に備えた名残りを伝えている。彼等の主要食品は米で、野菜、少量の魚、豚、鶏等を副食物とし、nuoc mamという魚油性醤油を以て調理する。(pp3-4) ※「魚油」は「魚」のまちがいと思われる。

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14.「印度支那に於ける邦人発展の研究」 杉本 直治郎


日本河と呼ばれた川と日本人在留の考察。地図多数。

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13.「浮雲」 林芙美子


映画化もされた、仏印に滞在した公務員が主人公の恋愛小説。

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12.「牛山ホテル」 1929年 岸田国士


岸田国士は元大政翼賛会文化部長。ベトナムの日本商社や民間人の姿が描かれる。
あらすじ:商社をやめて日本に帰国する男が、愛人を親元に帰そうとして、男が外務相時代の元妻に撃たれるなど、手切れ金や別れをめぐる事件が起きる。ホテルのおかみなど、現地で強く生きるからゆきさんの姿が、描かれている。

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11.「仏印事情」 1940年 田澤丈夫

行政、衛生状況、産業、風俗など、データがよくまとまっている。

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10.「佛印縦走記」 中野寛


立ち食いうどん(フォー)が日本と同様である

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9.「佛印と私」 酒井彌


ベトナム人の家に子どもが多い
食事が日本の農家と同じである

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8.「貿易風の佛印」1942年 シャン・ドウレル

●24 紙の街 (ハノイ旧市街/ハノイ36通り) p187
 ある朝、自分は午前中を費やして土着民の街を歩き廻ってみた。俥夫(クーリ)たちがうるさく言葉をかける。手を振って拒絶すると、彼らは不平そうにぶつぶつ云っている。
 その朝、自分はネグリエ廣場の圓い、小さな橋のたもとで俥(くるま)(人力車)を降りたのである。その橋を渡ると、玉山(ゴックソン)寺へ至る。『取り戻された剣の入江』という、何か傅説でも秘められていそうな名前の、小さな湖の一端、そこで浮島のようなところにある玉山寺は、河内(ハノイ)近郊の名所の一つである。
 ネグリエ劇場から土着民区へはたった一跨ぎである。土着民区では、その町の名前が面白い。絹屋町、両替屋町、錻力(ブリキ)屋町、漆屋町、笊(ザル)屋町……その町で商われている品物の名前が、そのままその町の名前になっているのである。小湖(プチ・ラック)から『大佛陀(グラン・ブッダ)通り』に至るまでに、町名は、それぞれの町で見られる商賣にしたがって、五度も変わるのである。
 紅河(ソンホン)の河岸と城壁との中間、ズーメ橋からクゥルペ通りまでの町々には、軒毎に象徴的な動物の繪姿や、色彩(いろ)とりどりの小籏や、素朴な繪看板などがぶら下がっている。木製の什器、不手際な刺繍、不器用に細工された銅器など、ちょっと手の出そうにもない品々を商っている店……
 カントンネィ街で張子の大きな酒瓶の表面に、“CÔ-NHAC”と書いてあるのを見たときには、ちょっと愉快だった。愉快だったのと同時に、ちょっと面食らった。
 日常語であっても、それに相当する言葉が安南語にない場合には、その発音だけをたよりにして勝手な文字がつづられるのである。
 ぴんからきりまで商賣だけのその区域である。自分はそこをぶらつくのが愉しかった。黒檀の函を作っている店を覗いてみたり――その店は、もし注文があれば、棺(ひつぎ)でも易々と作ってくれるのだ。――夢中になって扇を作っている店に足を停めてみたり、或は、たった二三時間のうちに、立派な靴を拵(あつら)えてくれる器用な靴屋をひやかしたり――もっとも、その靴は、諸君が穿いたとたん、踵(かかと)がぽろりと落ちかねぬ代物なのである。
 街の*のまんなか、道行く人たちの邪魔をしながら理髪屋が店を展げている。店とはいってもただ木の腰掛(ベンチ)が一つあるだけ、客はもちろんそれに腰を下ろしているが、安南人の理髪屋もまたそれに馬乗りになっているのである。
 自分は全く感服してしまった。如何にも窮屈そうな格好で仕事をしている理髪屋も感心だが、危っかしい剃刀の下に喉を差し出している客の度胸も称賛に値する。ぼんやりした行人がちょっとその腰掛に突き当たりでもしたら、客の首は切られてしまうではないか!
 飯屋がある。覗いて見ると、内部(なか)は茣蓙(ゴザ)を敷いて低い飯台がおいてあるだけである。客たちから見えるところに据えられた、大きな釜で煮られた飯や魚が粗末な椀に盛られると、客たちは箸を器用に動かして、せかせかとそれをかき込む。
 砂糖街と煉瓦街の角まで来ると、人間を詰め込めるだけだけ詰め込んだ電車が二台の俥(くるま)と四五台の荷車と、二台のトラックのために道を塞がれ、運転台から上半身を乗り出した運転手が金切声を出している。
 俥(くるま)には如何にも裕福そうな支那人が座している。絹の服、黒い支那帽、どっしりと取り澄ました顔で、電車の運転手と俥夫(クーリ)との口論などには気づいてもいない様子だ。
 曲がりくねった杖を頼りに、年齢(とし)頃もわからぬ一人の乞食が、ぼそぼそと哀れみを乞いながら歩いているが、そんなものに一瞥をだにくれようとする行人はいない。

●(ハイバーチュン寺)
 河内(ハノイ)の町の他の一端、豪雨に洗われて一際鮮やかな緑の水田を背景にして。『徴(チュン)姉妹寺』がある。周囲は、樹齢数百年と思われる巨大なバニアン樹の杜である。
 この寺の世話をしている尼僧たちが、忙しげに、徴(チュン)姉妹の似姿に金紙で造ったヒビスキュスの花を捧げたりしているのは、間近にせまった祭りの準備である。二千年の昔、強大な支那帝国に抗して起ったトントン軍の指揮をとった徴(チュン)姉妹は、云わばフランスに於けるジャンヌ・ダルクのごときもので、東京(トンキン)の愛国精神のあらわれなのである。
 竹の篭の上に拵(こしら)えられた貼紙細工のジャンク――これは、昔支那の軍勢を防ぐのに大いに役立ったと伝えられるジャンクを象ったものである――素焼きの象、ボール紙の武人――祭りの日には徴(チュン)姉妹の似姿を先頭にそれらのものが美々しくねり歩くのである。
 寺は、内部(なか)の様子にも何となく女性的なものが感じられる。丹青も美しい祭壇上に安置されてある。徴(チュン)姉妹の像は漆塗りである。一つは黄金のボタンを飾った絹の衣装を纏い、他は深紅の衣装を身につけ、そして――何を祈っているのか――低い天井に向かって捧げられた両の手は堅く合掌されている……。
 徴(チュン)姉妹の軍は、結局、朱徳(チェン・デュ)の戦闘に於いて破れ去り、その自由の夢と英雄的な生涯とは、大支那の一撃の下に脆くも潰えたのではあるが、しかし、彼女たちは今日未だに武神として崇められているのである。
 賽銭を献ずると、そのお禮に米で拵えた菓子を貰った。油がぽたぽた垂れている菓子である。黙って車夫(クーリー)の前に差し出すと、彼は、たった兎唇で、むしゃむしゃとそれを食べてしまった。

ホームページではわからないがルビはもとからついていたもの ()内は補足
「車」と「俥」はママ
「みくち」が「兎唇」となっているが、「たった三口で」か「兎唇で」のどちらか思われる

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7.「仏領インドシナ論」 横山正修


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6.「佛印・印度支那」1939年 久留島秀三郎印度・印度支那表紙

ハノイについてはほんの少しだけ記述がある。10\940年代ハイフォン
ベトナムの地誌、仏印形成の過程のまとめあり。

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5.「佛印紀行」1943年 リュック・ディルタン


●フランス人の振る舞い

 「この土百姓の録でなし、間抜け!めいめいに、コップが2つだぞ!シャンパンはどうした!きさま俺達を、きさまらのようなどん百姓だと思っているのか?きさまの臀(けつ)を蹴っとばすぞ!」
 モンテーニュ、ヴァレリーを語るフランス人の紳士が、ベトナム人を怒鳴り、殴ろうとする。・・・
 ベトナム人はオンや、妹、叔母と相手によって気を使って呼び分けるのに
 フランス人はベトナム人を「メイ」(おまえ)と呼び、ベトナム人はフランス人を「ムッシュ」(あなた)と呼ぶ

●電氣
 こうして、ドルの愛妾である電氣は、ショロン(チョロン)の真実の保護神となったのだ、人間の苦悶が最高潮に達する時、即ち夜の間の守護神なのだ。なんという大きな、そして有効な変革であろう。
 油紙の提灯も、魚の腹わたでできた提灯も、狭い町々からすっかり姿を消してしまった。至る所電氣灯ばかりだ。

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4.「佛印の旅に思う」1942年 高橋廣江

 ハノイの日本文化協会の事務長として活動していた小牧近江(こまきおうみ)宅に下宿していた記録なので、独立運動をするベトナムの小説家が訪問したり、短期滞在の人にはない臨場感がある記録です。

●都市間道路
 或る日、海水浴場として有名なドオソンに、そしてまたサムソンに遊んだが、喘ぎながら人力車を挽き、或は代赭色(たいしゃ色、ベンガラ色)のぼろを着て、その辺りの田畑で働くみすぼらしい住民に較べて、その舗装道路の立派なのに驚いた。それ等は無遠慮な強力な意志の象徴であるかのようであるこれ等が少なくとも今迄の植民地経営の文化的性格であったのであろうと私は思った。

●タイグエンとお歯黒
 ハノイの北々西七十五粁(キロ)のタイゲン(太原)へ行った。
 タイゲンは人口二、三千くらいと考えられる地方の裏さびしい一小都邑(とゆう/さとむら)である。
 (宿舎の)ボーイは最近までフランス政府の組織している軍隊にいたという安南青年であったが、歯を黒く染めているのが、私たちには女性的な印象を与えた。

●フランス人の態度
 フランス人が、安南人を馬鹿にしていることと言ったら! 若しあなたがフランス娘と恋をしてハノイかサイゴンで愉(たの)しい散歩をしているとして、その娘が安南人と応対するのを見たら、あなたは百年の恋もさめる気持ちで、きっと考えさせられるであろうと私は思う。

●ハノイにはトイレがない
 何しろハノイの市街にはただの一箇所の共同便所もなく、薄暗い街路では婦人が用を達していて、却って(かえって)歩いているこちらがしばしば驚かされる始末である。

●小説家と独立運動(いったい誰が訪ねて来たのでしょう?
 その日の午後に安南人に非常に人気があるという一青年作家が小牧さん(小牧近江 フランス文学者・翻訳家)を訪ねて来て、安南語で書いた自著の小説三冊にいわゆる「支那文字」で署名して小牧さんに献じ、佛印の獨立運動に関係があるという嫌疑で佛印当局に追求されているので、ご迷惑をかけては申訳ない次第だからというので、小牧さんが引き留めたにも拘わらず、そこそこに帰って行ったのである。日本人にかくまわれている限りはたいていは逮捕を逃れ得るとのことであった。氏はその青年作家の潔い行為に感激していた。私も小牧さんから紹介されてちょっと会ったが、瀟洒な紳士であった。

●ハノイの道路
 ハノイは森の都ともいうべきで、殆んど理想的な都市計画が完成している近代都市である。何よりも熱帯らしく繁茂(はんも)した巨大な街路樹の配列が美しい。大通りは中央が馬車道であって、その両側に街路樹が並び、その外側に歩道があり、歩道の外側はさらに街路樹である。中央と両側が街路樹の並樹になっている路もある。…
 一般の邸宅も多くは庭が広く、その中に巨樹が茂っていて、その枝や幹から夥しい気根が垂れ…

●人気小説 
  私はハノイで鄭叙鶯(チン・ツック・オアン)という婦人が書いた「西方の回答」という評判の小説を買って読んだ。これは小説としては水準が高いというわけには行かないけれども、今日の最も教養の高い佛印人が何を考えているかを知るには、私はずいぶんと参考になる書物と思った。阿片を飲んだりして全くニヒリックになっている婦人と、パリに留学し、ハノイへ帰って開業している女医と、安南人官吏の妻である貞淑な婦人との三人が並行的に出てくるのであるが、要するに今日の安南人が古い伝統と新しい文化の板挟みになって苦しむ姿を書いている小説である。

●カルノ通り
 ハノイで私が暫く住んでいたカルノの通りは、静かな住宅街で、佛印総督府やアルベール・サロオ中学※や植物園などもその一角にあり、昔の城跡に設けられたフランス兵営もすぐ近くにあった。夕方人力車に乗って宿に帰ってくる途中、鉄道の高架線をくぐってこの一角にはいると、急に四辺が閑散として、何という街路樹であるか、頭上のその密生した花が頭の痛くなるほど強い香りを漂わせているのであった。森の中に社宅があるような地域と高架線を挟んで相対し、特別に強烈な生(なま)の光を街にはき出している飲食店街の一角があった。

※アルベールサロー高校 現在は建物は共産党中央渉外部(Ban Đối Ngoại Trung ương Đảng Cộng sản Việt Nam )となっている。1 Hoàng Văn Thụ, Quán Thánh, Ba Đình, Hà Nội, Việt Nam

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3.「佛印を描く」1943年 久留島秀三郎

●随想 安南のテート(旧正月)
 「もう幾つ寝るとお正月」と指を折って数えるくらいに、テート(お正月)が嬉しい。年の始め、一年中の一番よい日、こころも新たに新しい年を迎えるのは、安南も同じである。暮れの二十三日になると、お正月(テート)の用意が始まる。この日朝(火土)君(タオクワン)という竈の神様を祀って、これにお供え物をする。
 このタオクワンというのは一人の女を中に、二人の男が座っている三人一組の神さまであるが、鍋や薬罐を置く三本足の五徳をかたどったといわれる。その一人が一般の土地、一人が家族の土地、一人が同所のそれぞれ神様ということになっている。
 とにかく竈の神様を祀ると、いよいよテートも近づいたと、何となく家人も忙しそうにするし、子どもははしゃいでくる。町も人どおりが多くなる。
 河内の中央停車場から出る高架線の下の、市場(マルシェ)は花で埋まってしまう。水仙の蕾が、ちょうど、大晦日の夜中に開いて、元日の朝に、眞白な花が咲いている、なんて悪くない。また河内から五十粁余りもある海陽(ハイヴォン)から澤山薔薇を持ってくる。薔薇の花もテートに咲いて呉れて、部屋の中を明るくする。
 また桃の花は、若い力、不老の花とされて、特に珍重せられる。それで河内(河内)の郊外には、お正月の桃の切り株を用意するための植木屋さんさえある。
 「それは高い、もっとまけろ」
 「枝ぶりだってよいですよ、この蕾をご覧なさい。ちょうどテート(お正月)には開きますよ。高くはないですよ」
なんてお客と花屋の取引が、そこここではじまる。桃の一枝が二十ピアストル(日本の二十圓位)から三十ピアストルにも売れる
 ざわざわと人どおりが多くて塵埃(ごみ)っぽい街路の隅に、老眼鏡をかけた、余り身なりのよくない、アゴ髭でもはやした老人が茣蓙を敷いてすわっている。そうして乞われるままに金の粉や銀の粉を撒(ま)いた赤い紙に、墨くろぐろとお目でたい文句を書いて、そこばくのお金をもられっている。若い安南人は平常はもうすっかり、漢字をどこかに置き忘れてしまった。漢字を書くことも、読むことも出来ない。それでもテートともなれば、昔のようにまた支那のように、門口(かどぐち)に、又室の戸口に、柱に、壁に紅い紙に、御めでたい文句を書いてその文字は読めなくても、意味がわからないでもよい。支那ではこれを春聯(しゅんれん)というのだが、富めるも貧しきもこの春聯を貼りつけることを忘れない。
 それが如何にも春らしい気持にする。そうしてこの貧乏そうな、老学者はなかなか好い字を、ほこりっぽい道端に座り込んで書いている。

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2.「佛印紀行 南の処女地」1941年 長谷川春子


●酒とアイスキャンディ
 土地の酒はついにどんな物か味わえなかった。ハノイの街では本国フランス並みに安く手に入る世界の美酒葡萄酒のため、土地の酒は影も見えない。それでも仏人の入らぬ田舎の奥地へゆけば、必ず今でも安南の酒なる物があるであろう。何しろ千年もの文化の伝統のある国なのだし、火體古風伝統を喜ぶベトナム人の性質なのだから。
 ところで面白いのは、現在ハノイの町で大いに流行し、ベトナム人の味覚に珍重されているのは、日本人のつくるアイスキャンディーであった。仏人街にも安南人町にも人通りの激しい往来に、田舎から出てくる果物売りより、はるかにこざっぱりと見ぎれいな男や子供が、ブリキの円筒缶を大事そうにもって、熱い日中立っている。中から取り出す一本一文のアイスキャンディーの赤いのや青いのが、冷たくうまくて何とも市民にはたまらないらしい。

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1.「佛印 繪と文」1941年 安東収一

------------解説--------------

●1940年代のハノイ
 1940年に日本軍がハノイに進駐した際に、陸軍嘱託としてハノイに長期滞在した安東収一が、イラストと文で、ハノイの様子を紹介した本です。
 当時ハノイはフランスの強力な開発計画により、ホアンキエム湖南側が開発され、デパートなどの商業ビジネス地区、計画的に造られた住宅地区、インドシナ総督府の行政機関、銀行、郵便局、病院などがありました。一方で北側の旧市街(36通り)は昔のままでした。また人口が急増する中、ベトナム人の住む郊外の住宅地域は、劣悪な環境で整備されないままでした。
 この本は、かなり「上から目線」で、フランスを賛美し、ベトナムの悲惨さを強調していますし、当時の日本軍の意図に沿った内容になっていますが、一方でじっくりとハノイに滞在して、当時のハノイの街の姿を、わかりやすくに描き出しているとも思います。
 またこの著者もラム兄さんと同じように、ハノイの美しさをたたえています。
 ここに書かれたハノイの姿を読むと、なぜ。ラム兄さんが、旧市街(36通り)にこだわったのか、「ベトナムにも、もっといいものがあるはずだ」と書いたのかが、少しわかる気がします。


●当時の文章と今の文章
 仏印は、当時のフランス領インドシナのことです。安南は当時ベトナムを呼んでいた呼び方です。現在では不適当な言葉もあると思いますが、そのまま紹介しました。
 また文中の歴史的かなづかいや、旧字は、新かなづかいや新字に直しました。そのままでもわかると思いわれるものはそのままにしました。
 現在では意味がわからないと思われる言葉は、現代語に直しました。()内は説明です。
 日本語の文章でさえも、当時と今ではちがって、そのままでは読めないのですから、ラム兄さんのベトナム語は読むのがむずかしくて、当然でしょうか

------------内容紹介--------------

9 ハノイ市(整然とした街並み)
 ハノイは、人口14万、仏印(フランス領インドシナ)の最高行政機関たる総督府の所在地である。
 街外れに近くに横たわるグラン・ラック(タイ湖)湖畔にそびえ立つ豪壮な総督官邸をはじめ、それに連なるフランス人住宅街の壮麗さ、さらに街の中心地にあるプチ・ラック(小湖/ホアンキエム湖)の畔に立ち並んだフランス人商店街の美しさ等、すべては支配者フランスの貫禄を示してあまりある立派さである。
 街の隅々まで道路は舗装され、すくすくと高く伸びた街路樹が、路の両側から枝をさし伸べて、美しく掃き清められた路に、涼しい木陰を落としている。
 すべての家は、ほとんどクリーム色を基調とした暖色に塗られているが、安南人の細民(貧民)街は別として、たいてい広々とした庭をもち、鼻先に隣の窓口を見る様な、都会に共通の窮屈さはない。
 この土地の豊富さが、街にゆったりした余裕をあたえている。路をおおって風に揺れる街路樹と、庭の茂みの中に立つ、瀟洒なクリーム色の家の、赤い屋根とが、明快な、甘美な色調を見せている。
 人の動きの少ないハノイの街は、何時もひっそりと、静まりかえって、この明快な景色の中に漂う空気も、すっきりと澄みきった感じである。
 ハノイの美しさは、その道路によって代表されている、と言ってもよいであろう。
 日が昇ると、もう緑の木陰に充たされる広い舗道は、常に美しく掃き清められて、汚れた顔を見せることはない。市区整然たる市街は、緑樹のトンネルに護られた、平坦な舗装路を、際限も無く見通せて、人の動きも目に入らぬ程の、路の美しさである。
 まことに美しく造られた街である。
 しかし我々は、この胸のすくような、壮麗な仏印の街に、1つの悲しみを見る。
 それは、うらぶれた姿も哀れに、はだしで歩いている安南人である。
・・・
 たくましい、堂々と造られた彼等の首都と、南国の強烈な陽に、空気を沸かせて、燃えあがるアスファルトを、はだしで踏みながら、ひっそりと歩く安南人の寂しい姿と、この2つの事実の示す、強大と弱小、栄華と貧窮の対象は、政治、経済、文化、仏印のすべての面において見られる、フランス人と現地人の隔たりであり、仏印の社会を構成する原則でさえある。

  共通(通有)
  平坦な(坦々たる)
  現地人(土人)
  隔たり(縣隔)

11 美しきプチ・ラック(ホアンキエム湖)
 ハノイの中心地に、満々と水を湛えた、プチ・ラックは、半の岸を、フランス人の繁華街に臨ませ、半ばを、安南人の繁華街に長く伸ばして、地域的に街の中心をなしている。
 幅の広い舗道に囲まれた、この湖水は、中の島に、古刹玉山寺(デン・ゴック・ソン)の御堂を浮かべて、岸からかけられた朱塗りの橋も美しい。

◆12 安南人街(ハノイ旧市街 36通り)

 小さな電車が、安南人を一杯乗せて、客の顔を、ゆっくり見分けられる位ののろさで、プチ・ラックの路を走って、安南人街に入っていく。
 停留所の腰かけで、頭を光らせた、安南のモダンボーイが、子供に靴を磨かせている。どうやらまだ片方だけ磨いたところらしいが、この次の電車が来る頃には、ゆっくりと両方とも履けるだろう。時々思い出したようにしか走ってこないのが、ハノイの電車である。
 ここはハノイの人口の8割を占める安南人の銀座であるだけに、相当な人通りである。湖の際の停車場から、電車は2筋に分かれて走っている。1つは駅の方へ、1つは華僑の密集地を過ぎて、大市場の方へ行くが。この電車通りがハノイで一番賑やかな所である。間口、一間か二間の小さな店が大部分で、その半ばをショウウィンドにした入口は、出入りするのも窮屈な位である。全体に建物も古いものが多く、他の新しく造られたらしい街筋に比べて、家も低く、フランス式の建築等は稀にしか無い。それだけに、我々はこの街に来ると、安南情緒を味わうことが出来たが、あまりすっきりしない。それは「ごみごみした、土臭い情緒である」といっては、失礼だろうか。
・・・
 このような店の間に、インド人や、支那人の店が混ざっているが、相当な広さを持った店に、ぎっしり商品を積み上げている。彼等の商売振りは、いかにも、余裕と、自信に満ちているように、見受けられた。
 店数の少ない、フランス人街を除いて、ハノイの商店は、洋服屋は、洋服屋町に、家具屋は家具屋町に、というふうに集まっているものが多いが、商品に特徴のない、小資本の店が、同じ品物を僅かばかり持って、大商店と連なって、軒を並べているのでは、なかなか骨の折れる商売だろうと思われる。
 丁度、百貨店に押される小売商のように、安南人の小さな店には、客の這入っていることも稀であった。
 ぞろぞろと人が歩いて行く、道の両側に、女の物売りが、いっぱい並んでいる。
 雑貨店、果物屋、餅屋、下駄屋、めし屋等が、皆、1人で担げる程度の品物を、ザルに入れて、店の出入口だけを、わずかに避けて、軒下に、長い行列をつくっている。
・・・
 それにしても、この両側の商店の者は、よほどの度量を持つことを、要求されそうである。店の前で、座り込んで、品物を並べた物売りは、時には、店の出入口に、邪魔になるほどの数にもなり、その物売りを囲んで、路に並んだ仲間達の、かしましい高話ともなる。
 一段高い店の敷居に、ずらりと腰かけて。騒いでいる連中さえある。
 めし屋を除いて、この物売り達の売っている商品が、どんどん消化されているのを、あまり見受けない。彼女たちの商売は、閑散である。
 そこで、暇つぶしに、豆をかじり、木の実を噛むこととなって、その皮は、店の入口や、道路にまき散らされる。
 全く、迷惑至極な、店頭の風景だが、この物売り達を、怒鳴りつけているのも聞かなければ、追い払っているのも見なかった。
・・・
 歩道にべったりと尻を据えた、女のめし屋の前で、2~3人の客が、店の女と同じように、足を投げ出して、食事をしていた。
 ザルの中に、無造作に転がされた茶わんを取りあげると、女は、米飯を盛って、それにザブリと汁をかけた。
 ザルの中には薄手の鍋が置かれ、小さな魚肉らしいものと、ネギを浮かした汁が入れられている。この大道のめし屋では、道路はりっぱなお膳である。
 女が無愛想に、路に置いた茶わんを取りあげて、陣笠(ノン)を被った女と、2人の男とが、むさぼるように、それを食っていた。
 路の砂ぼこりは、遠慮もなく、茶わんの上に被さるが、彼等は、一向そんなことには、無頓着であるらしい。
 強い陽ざしに、乾き切った舗道は、風の吹くたびに、白いほこりの波を打たせている。
 大きいズボンをバタつかせ、下駄を引きずって、ぞろぞろと人の歩く足下で、彼等は、喜びの少ない、荒れはてたその生活の中の、1つの大きい慰めである、食事を摂っている。
・・・
 支那人は、元来、非常に賑やかに、やかましく出来た国民だが、市場の喧噪は、どこに行っても驚くべきである。
・・・
 それに比べると、安南人の市場は、静かである。何といっても、温和しい安南人は、群衆になっても、その相貌を一変させる様なことはない。相変わらずの謙虚であり、生ぬるき倦怠である。

  全体(一體)
  ここ(此処)
  わずか(僅か)
  ザル(笊)
  度量(雅量)
  あまり(餘り)
  風景(景物)
  かじり(齧り)
  薄手の鍋(薄鍋)
  りっぱ(堅牢)
  荒れはてた(索漠)
  摂る(攝る)
  謙虚(謙譲)

20 カムテンの夜(ハノイの夜の遊び)
 街の中心に向かって立った、ハノイ駅の背面にカムテンという、安南の芸者屋町がある。料理屋というべきかもしれないが、芸者と酒を主とした商売である。
 踏切を越えると、このような街としては、暗すぎる路の両側に、ずらりと料理屋が並んで、蓄音機の音等が、派手に聞こえて来る。踏切には両側に巡査が立っている。やや、服の色が派手なだけで、別に変わったところもない安南服の女が、2階の窓から路の人通りを見おろしていたり、2~3人かたまって店の前で立ったりしている。
 店の入口には、家の番号がやや大きく、付けられている。これが店の名前として用いられ、何々楼とかいう屋号は無いそうである。
 カムテンというのも地名だそうだ。
 車挽きに「カムテン」というと、元気のない声で「ウイ、ムッシュー」と答えて走りだす。
・・・
 カムテンにいる芸者達は、金で買われて来る者もあるが、年頃の娘が、結婚の機会をつくるために、出てきた者も居るそうだ。安南有産階級の遊び場であると共に、社交機関でもあるこれらの店に、あまり家庭のよくない娘達が、いわゆる、上流の男子に接近して、玉の輿に乗る機会を、つかもうとしたことは、想像できる。
・・・
 彼女たちの恋愛は、拘束されることがない。自由である。
 したがって、相当のプライドを持っている・・・
 踊りや、歌を所望されると、三味線弾きや、歌い手を呼んでくる。太鼓の様に木をたたいて、歌い女は、どこか朝鮮の歌によく似たものを感じさせる、寂しい調子の歌をうたう。男が、それに合わせて、大きな三味線を弾く。

26 安南祭 (祭りとベトナムの色)
 仏印(フランス領インドシナ)の3~4月はお祭りが多い。
 都会にある寺院はもちろん。小さな部落にある寺も、いとも賑やかに幟(のぼり)が立てられて、寺の周囲は、赤や、青や、黄の派手な色彩で飾られる。新しい幟は、原色ばかりの連なりが、ややあくどいものを感じさせるが、これも、いかにも、強い太陽の照る国らしくて、必ずしも悪いものではない。
 時代を経て、古びたものは、そのあくどさが除かれていて、色の調和も美しい。
 色あせた赤は、ねむった熱情のごとく、黒ずんでさめた藍は、民族の苦闘の歴史を想わせ、黄土のごとく疲れた黄は、南国の神秘をたたえる。
・・・
祭りを迎えて、この街のざわめきに、我々旅人が感じさせられるものは、純情一路のうるわしい安南人の姿であった・・・

◆34 旅感短評  (美しいハノイと強い女性)
 ハノイの街は美しい。路も家も、緑の中に包まれて、森の中に住んでいる様な、落ち着いた感じである。
 眠りから醒めた、朝の静けさを破るかのように、やがて物売りが通りはじめる。実にひっそりと音もなく、両側の反り上がった天秤棒で荷物を担いだ女達が、はだしで次々と通って行く。
 バラや、百合や、グラジオラス等、美しい花を持った花屋、ちまきの様に葉にくるんだ餅を担いだ女、めし屋、果物屋等。めし屋は安南人の出盛る所へ、各々朝の営みの始まりである。
 そしてそれらは皆女なのである。
 安南の女はよく働く。働いて金を儲けて、亭主を養い、子供を育てる。
 勤労は女のすることと、決められているような所である。

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